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お通じ

汚い話が続きますが、肝心なのは小便より大便です。

入院中は、とにかく便の心配をされます。

普段の生活ではそんなに気にしなかったことが大事なようです。
1週間以上も出ないなんてことになると大騒ぎです。
普通か。
いや病院内で入院中ともなると下剤だ!浣腸だ!と大騒ぎです。

入院すると出なくなる人が多いそうですよ。

私は普段、毎日毎日出る方ではなかったのですが、入院して数日間
便が出なかったのです。

・・・1週間ほど出ませんでした。

大騒ぎになる前に下剤を飲んでようやく便が出た時は、ほっとしました。

その後、入院中はずっと下剤を飲んでいました。

毎日毎日。
自宅に外泊するときも。
しかも毎日出てました。

毎日、出たことを帳面に記入することになっていたのですが
娘が病室に見舞いに来て、それを見るたび
「お、今日もタレたのか」とか 「お、今日は2回もしたのか」とか
いちいち声に出して言うから同室の人に聞かれて恥ずかしかったですわ(笑)

・・・

ちなみに私の入院経験は、小学校の4年生だった頃、
交通事故で左足を骨折して手術後、数日間入院しました。

まぁ小学生の頃なのであまり覚えていませんが、
便の心配などしていなかったような・・・




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不自由

私は右利きです。

麻痺したのは右半身です。

今まで鉛筆等のペン、箸、歯ブラシ、全て右手を使っていました。
左手では一切使ったことがありません。
いっそ左半身が麻痺だったら良かったのに。と何度も思いました。

そうなのです。
ペン、箸、歯ブラシ等が全て使えません。
今までの普通の生活が出来ないってことです。

しょうがないので食事は左手でスプーンを持って食べることにしました。
食べ辛かったし、美味しく感じなかったです。

・・・

歯ブラシは左手じゃどうしようもありません。
元々器用ではなかったので、歯ブラシを左手で持っても磨けないのです。

息子が入院してすぐ、普段使っていない電動歯ブラシをくれました。
私は今まで電動歯ブラシを使ったことがなかったので戸惑いましたが
そうは言っていられません。使ってみました。

電動歯ブラシは便利です。
歯にブラシを当てて移動すればいいのです。
ゴシゴシ磨いちゃいけないのです。(電動歯ブラシのサイトより)
これなら左手でも出来ました。

・・・

ペンは無理です。
50歳を過ぎてから左手で書く練習をする気にもなりません。
そのうち必ず右手が動くようになることを信じ、書く練習もしませんでした。

いっそ左手で書けるように練習した方がよかったかも・・・
と思うくらい後日、苦労するとは思いませんでしたが。




歩けない

入院して1週間は点滴をしていました。
丸1日中ずーっと。

トイレ等の移動はナースコールをして、車椅子に乗せてもらい
点滴をつけたまま看護師さんやヘルパーさんに連れて行ってもらいました。

そして入院して8日目でリハビリ病棟に移りました。

リハビリ専門の所があるそうですが、私が入院した病院は
同じ建物内にリハビリできる場所(リハビリ室)があり、
リハビリ病棟まであったのです。

リハビリ病棟に移った時点で点滴がおわりました。

入院して8日目でリハビリ病棟に移るなんてわりかし早い!
と言った看護師さんがいましたが、本当でしょうか。
この時はまだ右手も右足もほとんど動かないままでした・・・

リハビリ病棟に移ってからトイレ等の移動は自分でしました。
ベッドから車椅子、車椅子からトイレの便座くらいの短い距離は
移動できたので。
そう、物や手摺につかまって立つことはできました。
車椅子の自走も左手、左足でなんとかできました。
手のかからない患者だったと思います(自分で言うな!)

・・・

この頃でした。

リハビリ室の平均台?平行棒?2本の端で車椅子から立ち上がり
それを両脇で抱えて歩いてみました。
もちろんリハビリの先生(理学療法士)の指示ですから先生が傍にいました。

歩けません。

右足をひきずって、両脇でやっと移動しています。
涙が溢れました。

歩けないなんて・・・

歩けなくなっているなんて・・・

普通に生きている人は、この気持ちはわからないと思います。

この時、改めて大変な病気になったなと思いました・・・



結婚記念日

私、結婚したのが22歳、そして病気になったのが52歳
そう、結婚してからちょうど30年でした。

11月3日が結婚記念日です。
病気になる、たった2週間前でした。

結婚記念日は静岡県の伊東市に夫婦で温泉旅行に行ってきました。
べつに特別なことは無く、普通の1泊温泉旅行でした。が、
入院して数日間は、その時のことをよく思い出しました。

大して楽しかったわけでもなかったことが
妙に楽しかった風に思い出されるのです。

ベッドに寝たまま、その度に涙が溢れ出すのです。

辛かったです。。ただただ辛かった。。

・・・

まぁ健康診断もせず、不摂生をしてた私がどうせ悪いんでしょうね。

ふん(なぜ逆ギレ)



病院食

当たり前ですが、人間は食べなきゃ生きていけません。
でも、誰でもそうだと思いますが病院食には馴染めません。

入院したことがない人でも容易に想像がつくでしょう。
はい、まずいです。
もぅいちいち死にたいと思います。

入院して1週間くらいは、ほとんど食べれませんでした。
それがあるときから普通に食べれるようになりました。

ほとんど食べていないことをリハビリ中に
リハビリの先生(作業療法士)へなにげに伝えると

「今はまだ良いけど、カロリー的には毎回食事を完食しても
 消費カロリーの方が多いくらいのリハビリになりますよ」

と言われて無理ヤリ食べるようにしました。

そのうち無理ヤリが無くなり、普通に食べれるようになりました。

・・・

日を追うごとに不思議と食事が楽しみになりました。
入院当初、左手で しかもスプーンでしか食べれなかったので
余計美味しく感じなかったのですが、
なんだかだんだんと美味しく感じるようになったのです。(極端だな)

慣れって怖い。ってたまに言いますけど、本当に慣れるもんです。




脳幹梗塞(一)

今更ですが、ここらで私がなってしまった脳幹梗塞という病気とは・・・

脳梗塞(のうこうそく)という病名は聞いたことがあると思います。
でも、脳幹梗塞(のうかんこうそく)は、一般的にあまり聞かないですかね。
私は自分がなってしまってから初めて聞きました。

よく、大脳とか小脳とかは聞きますが、
頭の中には、脳幹(のうかん)という部分があるそうです。

頭の中の脳幹(のうかん)という部分が梗塞(こうそく)したというだけで、
大雑把に言えば脳梗塞なんでしょうね、きっと。(いいかげんだな)

・・・

自動車の運転なのですが、運転免許証を持っている人は

脳梗塞等の病気を1度してしまいますと、元の身体に戻った人でも
必ず医師の許可を得て、診断書を持参し自動車運転免許試験場へ行って
適正検査を受け、合格しなければいけません。

元の状態に戻った人でも発症した事実がある以上
自己判断で大丈夫だと思って自動車運転を再開してはいけないそうです。

私は退院後、ちゃんと医師に診断書を作成してもらいました。
その診断書の病名欄は、
脳幹梗塞ではなく「脳幹部ラクナ梗塞」と記述されていました。
正式な病名なのでしょうかね。
自動車運転免許試験場の警察官に病名の質問をされましたけど。

「脳梗塞じゃないの?」と言っておきました。(いいかげんだな)




脳幹梗塞(二)

脳幹は、脳の中でも最も重要な部分で、
脳幹の働きが全くなくなってしまうと脳死になるそうです。

そして脳幹は、手術ができない部分とされているようです。
ブラックジャックやドクターXでも無理なんでしょうかね(真顔かよ)

脳幹は大きく分けると、間脳・中脳・橋・延髄 の4つに分類されるそうです。
それぞれの役割や機能は、
インターネットで調べると他所で詳しいことを解説されていますので
ここでの説明は割愛します。
ご興味がある方はどうぞ調べてくださいませ(ググれカスとは言いません)

脳幹は多数の脳神経が出入りし、多数の神経核が存在しており、
大脳・小脳・脊髄からの信号を中継して
多数の生命維持機能を含んでいるそうです。

なので、脳幹が機能しなくなると意識は保てなくなって、
自律神経や呼吸、心臓まで機能しなくなってしまうそうです。

本当に重要な部分なんですね。

そんな重要な部分の血管に動脈硬化等で、血栓や狭窄がおきて 詰ることで
脳に障害がおきる病気が、脳幹梗塞(のうかんこうそく)だそうです。

この部分が梗塞を起こした場合は、
死に至る可能性が高く大変危険だそうです。
あの日、あの時、私・・・本当に突然 死んでいたかもしれませんね。

手術もできない部分なので
たぶん血管内に詰まったものを点滴で溶かす治療をしたのだと思います。
朦朧としていたので、説明をされたかどうかも覚えていません。。。

・・・

脳へ血液を送る血管が詰まると、
その先の大切な脳細胞へ血液が流れなくなって
脳細胞が死んでしまいます。

死んでしまった脳細胞は生き返ることはありません。

点滴により血管内に詰まった血栓等を溶かしても
死んだ脳細胞は生き返りません。
よって、死んでしまった脳細胞が今まで担当していた機能に障害がおきます。

いろいろな症状やいろいろな障害があるようですが、
私の場合は右半身麻痺ですね。それと言語障害。
50年以上、当たり前のように右手右足を動かしてきた脳細胞は、
死んでしまったのです。

後からいろいろ調べましたが、本当に怖い病気です。

で、元の日常生活に戻ることを期待できるのは
「リハビリテーション(リハビリ)」です。
これしかありませんね。今のところ。

なんでもリハビリを続けることで、
死んでしまった脳細胞の近くにある別の脳細胞が、
死んでしまった脳細胞が今まで担当してきた機能を
ある程度まで肩代わりすることが判明しているそうなのです。

人間の身体って、すごいですね。




脳幹梗塞(三)

治療は、下記の方々がチームで行ってくれます。

医師
看護師
作業療法士
理学療法士
言語聴覚士
ソーシャルワーカー
栄養士
そしてヘルパーさん

入院してから退院まで、本当に本当にお世話になりました。

一般的に医学的なリハビリテーション(リハビリ)は、
発症直後~3週間までの「急性期」、
病状安定後から3~6ヶ月程度までの「回復期」、
それ以降の「維持期」の3段階に分かれているそうです。

急性期、回復期は病院に入院するようになりますね。。。

たしか入院して点滴をはじめ、まだ朦朧としている状態から
動かなくなった右手足が固くならないよう、ベッドに寝たまま
すぐにリハビリを開始したような気がします。
違ったかな・・・ はっきり覚えてないや(おい)

・・・

私の場合は、退院後に外来で1度だけリハビリをしていただき、
それでリハビリは終了となりました。
あとは医師から血圧を下げる薬と血液をサラサラにする薬を
処方されるだけとなりましたが、症状や状態により
退院後もリハビリに外来で通うようになる人もいるようです。




意味

入院当初、ベッドに寝ながら毎日毎日
「あの時、死んでいれば」「あの時、死んでさえいれば」
そんなことばかり思っていました。

医師は「必ず良くなるから。あせらないで」とは言ってるけど
もし治らなかったら この先こんな身体で生きていくの?

右手、右足がほとんど動かないんだよ?
歩くこともできないんだよ?
ろれつが回らず、ちゃんと喋れないんだよ?
良くなるってなんだよ? 元通りに戻らないの?

当たり前のように出来ていたことが
出来なくなったこの身体で生きていけるの?

楽しいことが楽しく感じるの?
嬉しいことが嬉しく感じるの?
なんでオレだけがこんな目にあうの?
いい歳したおっさんが涙流しながら弱気なことばかり思っていました。

・・・

「生きてて良かった。生きてるだけで良い。」
そう言ってくれた奥さん。

病院に緊急搬送されて、生きてることを確認して
本心でそう言ってくれたのだと思うけど、もし治らなかった場合
この先「あの時、死んでいてくれれば」なんて思わないとは限らない。

もう悪いようにしか考えなくなっていました。
絶望とは、こういうことを言うのかな。

・・・

でも、少しずつ身体が動くようになり、
こんなことばかり考えてると治るものも治らなくなるんじゃないか?
ほら、だんだん良くなってきてるんじゃないの?
と思うようになりました。

「あの時死ななかったのは、何か意味があるのでしょう」
何となくだけど、そう思うことにより、
せっかく拾った命、大事にしてみようかな?なんて気になってきます。

不思議なもので、少しずつでも身体が動くようになるだけで
前を向こうとするもんなんですね。
全然身体が動かず、良くなってると実感出来なければ
とてもそんな前向きにものを考えようとはしなかったのかもしれません。
わかりませんが。

ま、あの時死ななかったのは、意味なんて全くないのかもしれませんが。




てんてこまい

私が急に入院してしまったので、家族は大変です。

大慌てだったみたいで。

私が入っていた保険会社に問い合わせし、手続き方法の確認をしたり

家のローンがまだ残っているので残債をどうするか銀行に相談したり
(残債が免除になるかと思ったらしい・・・)

私が経営している会社の納品書や請求書の作成をし、郵送したり
(この件ではお客様にも大変ご迷惑をおかけしました・・・)

今後のことを税理士さんと相談したり、年末調整があったり

また、年末になるので年賀状の作成したり

自分らの会社の仕事は忙しいみたいだったし、とても大変だったそうで。

・・・

いやいや申し訳なかったですね。

急に倒れた私が悪いよな。

まぁ好きで倒れたわけではないけど。(なに偉そうに)




約1ヶ月

不思議なもので、右手も右足もみるみる治っていきます。

いやまぁそんなに極端ではないけれど。
少しずつ、という表現が正解ですかね。

ほとんど動かなかった右腕が、少しずつ挙げられるようになります。
出来なかったグーパーグーパーも指先のしびれはあるものの
少しずつ出来るようになります。

立つことは入院当初からなんとか出来たけど
ほとんど動かなかった右足もちゃんと地を蹴り、
少しずつ歩けるようになります。
御世話になった車椅子も乗らなくて良いようになります。

この間、入院して約1ヶ月。

すごいなオレの脳細胞。
じゃなくて全てリハビリの先生たちのおかげです!
本当にそう思います!
この短期間で、よくここまで動けるようにしてくれたものです。

でも入院して約1ヶ月の時点では、右手で箸もしっかり持てなかったし
ペンを持って字も書けませんでした。

入院して1ヶ月経たないうちにペンは持てるようになりました。
でも持っているだけです。
握っているだけと言った方がいいかもしれないですね。
とても書けない。
書いてみましたが字にならないのです。
字はわかる。
頭の中は普通の50代です。でも字を書けないのです。

また、タオルに石鹸をつけ
右手でしっかり身体の左側を洗えるかといったら洗えません。

歩くことはできても 小走りはできませんでした。

リハビリの先生(言語聴覚士)は「軽い症状」と言ってくれますが、
私的には、まだちゃんと喋れていません。
マシンガントークもできません。(元々できなかっただろ!)

いやまぁ、正直「まだまだ」って感じでした。
元の状態に比べると。(どうしても元の状態と比べてしまいます)

あ、ちなみに入院当初、顔の右半分が垂れ下がっていたようですが、
この頃には、すっかり元通りになっていました。

・・・

そうそう、言語なんですが
医師をはじめリハビリの先生たちとは、入院して初めて会いました。
当然、病気になる前の私の話し方は誰も知りません。
家族以外は。
なんとしても以前の話し方に戻るために必死で自主トレしました。
病室や洗面所で鏡見ながら口の中に指突っ込んで、さらに声出して。
大して効果は無かったけれど(笑)その姿がなんとも滑稽でしたわ。




装具

入院して数日後、リハビリ室で杖を使って歩行練習をしました。
この頃は、杖をついてなんとか歩けるくらいになっていました。

「良くなっても今後は杖をついて歩くようになるのかな・・・」

そう本気で思っていました。

でも・・・

さらに数日後、杖がなくてもなんとか歩けるようになります。

ただ、若干ですが
右足の外側(右足の小指側)から足裏が地に着いているようです。
もちろん無意識にです。

なんでも、これが当たり前の歩き方になると
長い時間、長い距離を歩けば、すごく疲れてくるそうです。

なので「装具」を付けた方がいいかもしれないと言われました。
右足に装具を付けて、正しく足裏が地に着けるようにと・・・

「杖をつかずに歩けるようになったけど、装具を付けるようになるのか」

そう思っていました・・・

ある時、担当のリハビリの先生(理学療法士)が

「本当に若干なので悩みます。他の先生たちにも見てもらいましょう」

と言い出し、20名以上の理学療法士の前で歩かされました。
ちょうど娘が見舞いに来たところだったので娘も見ています。

恥ずかしいったらありゃしない!
とても「モデルになった気分だ♪」なんて気にならない。
決めポーズもする気にならない。(はぁ?)

結局、大勢の意見で
「今はまだ装具を付けなくてもいいんじゃないか」となりました。

・・・

その後のリハビリで、右足の着き方は良くなったようで
装具を付ける必要性は全く無くなりました。

以前のように生足で歩けるようになりました。




面談

入院して1ヶ月とちょっとの平日、
医師ら病院側と私たち家族との面談がありました。
病院側は、カンファレンス(会議?)と呼んでいました。
毎月1回あるそうです。

患者である私は点数を付けられます。
満点は100点で、95点も付けてもらえました。

入院して1ヶ月とちょっとです。
入院当初、右手右足がほとんど動かなかった状態でした。
それがよくここまで・・・
すごいなオレの脳細胞。
いや違うだろ!

でもいますぐの退院は見送った方が良いでしょうとのこと。
せっかく良くなってきたのだし、もう少しプロのリハビリの先生たちに
指導してもらった方が良いと医師に言われ、素直に首を縦に振りました。

本音言えば自宅に帰りたかったです。
でもまぁ冷静に考えてみて、こんな状態で家に帰っても
普通に生活できるだろうか? やっとだろうなと思いました。
ここは、駄々をこねず医師の言うことを聞きました。
偉いよなオレ。
いや違うだろ!

この日は、年末です。
年末年始の外泊届けを申請しました。
入院してから初めての外泊です。
行き先は、自宅ですけど。




外泊

年末年始は、自宅で過ごすことが出来ました。

12月31日、1月1日、1月2日だけですけど。

なんでも外泊は2泊3日までとの決まりがあるそうで。

入院してから初めての、1ヶ月半ぶりの自宅です。

小さくて狭くて汚い家だけど
(またまたご謙遜を。と言って下さいお願いします)
やっぱりウチは良い!
やっと帰ってこれた! 退院したわけじゃないけど。

・・・

1年と少し前に母親が亡くなっていたので、まずは仏壇に。

「かあちゃん、オレこんな身体になっちゃったよ」

手を合わせて小さくつぶやいたら・・・涙が溢れてきました。
母親が亡くなったとき以来かな、自宅で泣いたの。

ちなみに父親は、私が19歳のときに亡くなっています。
この時、両親は他界していたので救われたかな。と思いました。
きっと親は子供のこんな姿は見たくなかったんじゃないかな。。。

・・・

この時は、歩けてはいたけど、なんか歩き方はギコチなかったし
うまく喋れなかった状態でした。
お風呂は自分ひとりで入りましたが、おっかなびっくりでした。
思った通り普通の生活が、やっと。でした。

この外泊を機に日常生活を徐々に・・何度も経験していくことになります。




あのときのおっさん

私が歩けるようになって数日経った頃・・・

車椅子に乗ったひとりのおっさんが、
病院の廊下で人目もはばからず泣いています。

けっこう大きな声で。
号泣です。

気持ちはわかります。

今まで普通に暮らしてきたんだなと思います。

私と同じ病気かどうかはわかりませんが、
半身が麻痺しているのはわかります。

・・・

身体が言うこときかないんだもんね。

思った通りのことが喋れないんだもんね。

その辛さは痛いほどわかりました。

・・・

このおっさん、私より先に車椅子のまま退院されました・・・

今頃どうしているかなぁ

笑顔で暮らしているといいけど。。。


rouka02.jpg



塩分

血圧が「上が120、下が70」なんてよく聞きますよね。

上の血圧は「収縮期血圧」と言うらしく、
心臓が収縮したときの血圧だそうです。

下の血圧は「拡張期血圧」と言うらしく、
心臓が拡張したときの血圧だそうです。

単位は、mmHg みたいですね。
ま、詳しいことは各自調べてみてくれ(何様だ!)

上の血圧が140mmHg以上、下の血圧が90mmHg以上が、
いわゆる「高血圧」と言われているそうですね。

で、どうやら私、入院時の血圧は、下は覚えていませんが
上が200mmHg以上あったそうです。
高いですね。
自覚症状は全くなかったんですよね。
怖いですね。
入院してからも数日間はこの数値だったようです。

もちろん血圧を下げる薬を処方され、毎日服用していました。
退院してからも毎日服用しています。

ということで私は「高血圧」になります。
当然、言わずと知れた塩分制限をしなきゃいけません。
と言っても私、料理は一切出来ませんので、奥さん任せになりますが。

入院中は病院食なのでちゃんとやってくれますが、自宅では大変ですよね。
ねぇ奥さん(人ごとみたいに!)

では、なぜ高血圧の人は、塩分を制限しなければならないのか。

塩分は血圧と密接な関係があるそうです。
塩分を摂りすぎると、血液中のナトリウムの濃度が高くなります。
ナトリウム濃度が高くなると、それが中枢神経に働いて のどが渇き、
水分を摂りたくなります。そして水分を摂ります。
水分を摂ると血管に流れる血液量が増え、血圧が高くなるそうなんです。

塩分を摂りすぎると体内の塩分と水分の量を調整するために血液量が増え、
高血圧になるというわけなのだそうです。

・・・

高血圧状態が続くと血管はいつも張りつめた状態になり、
次第に血管が厚く硬くなってしまいます。
これが高血圧による動脈硬化というそうです。

動脈硬化は脳梗塞や心筋梗塞などの原因になるそうですね。
動脈硬化の予防にも塩分の制限をしなくてはいけませんね。

日本の高血圧治療ガイドラインでは、
高血圧の人に対しては1日の食塩摂取量として
6g未満をすすめているそうです。

たしかに入院中、栄養士さんや看護師さんから退院後の食事は、
食塩を1日6g未満にしてくださいねと言われました。

病院食では、ちゃんと食塩は1日6g未満にしていただいていたはずです。
病院食の献立表に「お味噌汁」と載っていても
私の食事になかったことが多々ありましたし。
高血圧なのですから塩分の制限は、しょうがないですよね。

・・・

ほとんどの日本人は必要量をはるかに超える食塩を摂取しているそうです。

血圧が正常な人にとっても
食塩は1日6g未満を心がけることが、すすめられているそうです。

鼻クソほじりながらここを読んでるそこの人、人ごとじゃないですよ。


誕生日

どうでもいいことなのですが、
実は私、入院中に1つ歳をとりました。

入院した時は52歳だったのですが、
退院する時は53歳でした。

入院中、気づいたのはリハビリの先生数人だけ。
なんかくれ。とは言ってません。
でも言ったらなんかくれたかな(やめろ)

入院した時、右腕にネームバンドみたいなものを付けられたのですが、
それに氏名、生年月日と年齢が記述されていました。

退院までそのバンドを付けたままなのですが、
(外出や外泊をするときもそのままです)
退院時、それを取り外すまで52歳のままでしたわ。

・・・

本当にどうでもいいことでした。


rouka03.jpg

訓練

私がここでリハビリの先生と呼んでいる方は、
作業療法士、理学療法士、言語聴覚士 の人たちです。

作業療法士は、主に手を
理学療法士は、主に足を
言語聴覚士は、主に口を
良くしてくれるようにリハビリしてくれました。

リハビリの先生は、なんでも総勢50名程いるそうです。
それぞれ担当の先生がいましたが、担当がお休みのときは
別の先生がリハビリしてくださったので
患者は日曜日も祝日も関係なく毎日リハビリしていただけます。

・・・

入院当初は、動かなくなった手足が固くならないよう
ベッドに寝たままマッサージ的なことが多かったのですが
歩けるようになってからは、キツかったですよー。

歩けるようになってすぐの頃、
ようやく歩けるようになったばかりだというのに
リハビリの先生に引きずられるように走らされたり(汗)

だいぶ歩けるようになって安定してきた頃になると
空気の入った平らでグニョグニョな円盤みたいなヤツを踏んで
不安定な足場にされ、手にお盆を持たされて、
そのお盆の上に水の入ったコップを2つ乗せられ、
さらに首を上下左右に振りながら、声出して暗算をさせられたり(汗)

日常生活で、こんな場面は無いだろうってことを多々しました(汗)

様々なことを脳に叩き込まれたって感じです(涙目)

先生たちは、よく「訓練」と口にしていましたが、まさに「訓練」でした。

わん

・・・

おかげさまで退院後、普通に日常生活を過ごせるようになりましたが。


約2ヶ月

入院して約2ヶ月

2回目のカンファレンス(この頃には聞き慣れました)でした。

病院内では問題なく、いつでも退院していいよ。と言われました。

患者である私の点数は、一応100点をいただきました。

あとは退院日を決めるだけ! 待ちに待った退院! 

でしたが、ここで問題が!

家庭の事情で、まだ帰って来るなと家族が・・・

!!!

しくしくしく

・・・

まぁ自分でも自宅で生活していく上で全く支障がないかと問われれば
首を傾げていたでしょうし、
何より仕事が問題なく今まで通り出来るか不安でしたし、
もう少しだけ・・・もう少しだけ病院にお世話になることにしました。

ちなみにこの頃には、右手で箸を使えていました。
元々、箸の使い方は上手な方ではなかったので、こんなもんかな。と
自分で許せるくらいにはなっていました。

ペンは・・・
約2ヶ月経ったこの頃には、なんとか書けるようになっていました。
入院中、毎日毎日字を書けるように練習しました。
最初は丁寧に、だんだんと早く軽く。

かなり苦労しました(汗)

字も元々、上手な方ではなかったので、これもこんなもんかな。と
自分で許せるくらいに・・・なっていません!

この頃はまだ、自分で許せるくらいにはなっていませんでした。

でも退院しても許せるくらいになっていませんでした。
結局、こんなもんかな。と思うようにしています(苦笑)

歯磨きは・・・
約2ヶ月経ったこの頃も 相変わらず電動歯ブラシに頼っていました。
まぁこれはいいじゃん。
あ、でもこの頃には右手で電動歯ブラシを使っていました。
右手で移動させていました、が正解ですかね。

ろれつは・・・
うまく回りませんでした。。。
マシンガントークは、まだまだ出来そうにありません(まだ言うか!)

・・・

退院日は後日に決定し、
2016年2月29日(この年は、うるう年でした)になりました。

家庭の事情をはじめ
自分の不安感で3ヶ月以上の入院生活になってしまいました。。。

娘。

大黒柱を失った家庭は、どうなっているか気になります。
失ったとはいっても死んだわけではなく入院中なだけですけど。

家族みんな、心配してくれたのは倒れて入院した数日間だけでした。

入院当初、焦点が合わず見てるもの全てが二重に見えてる間は、
さすがに容態が心配だったそうですが、それが治ってからは、
どうやらあまり心配しなかったようです。

私自信は、不安で不安でどうしようもない時期がありましたけど、
まぁ精神的なことは別にして、
身体的には、日に日に状態は良くなっていきましたから。

入院して数十日は、家族全員で見舞いに来てくれました。
入院してかなり経ち、だんだんと家族の見舞い頻度が減ってくる中、
娘だけは毎日のように仕事おわり等に来てくれました。

感心するほどに。

来ても暇なのに。

あまりにも見舞いにくるため、何人かに私の奥さんに間違われましたが。
間違われるその度に娘はヘコんでました(笑)

私は元々口数が多い方では無いです。
病気の後遺症でうまく喋れないので、さらに口数が減ります。
きっと退屈だったと思います。
退院前、何週間は言語のリハビリを含め、
かなり口数は増えていたと思いますが。

「すぐ暗くなるから早く帰りな」
入院中、私がよく言っていた台詞です。
来てくれて、いつもすごく嬉しかったくせに。

自分の家庭を持っていたら、中々そうはいかなかったでしょうね。

毎日のようにバスに乗って、病院へ見舞いに行くなんて。

それも不摂生をしていたかもしれない父親の見舞いになんて。


風呂

入院中、どうしても我慢できないことがありました。

それは、頭がかゆくなること。

病院で入浴できるのは週2回、私は毎週月曜日と木曜日だけでした。

もちろん毎回入浴したときに頭も洗ってもらえるのですが、週2回です。

週2回だけです。

私、入院する前は毎日入浴していました。
もちろん頭も毎日シャンプーつけて洗っていました。

それが週2回だけです。
無理です。

入浴して2日後には、頭がかゆくなってたまりません。
かきむしったこともありました。
血が出るほど。(大げさ)

なのでよく洗面所で見舞いに来た娘に頭を洗ってもらいました。
退院間際は自分ひとりでも洗面所で頭を洗っていました。
こんなヤツ、私が入院している間は見かけませんでした。

で、お気づきかも知れませんが
「頭も洗ってもらえるのですが」と前述しました。

そうです。
右半身がしっかり動くようになるまで、
タオルに石鹸をつけ、右手で身体の左側をしっかり洗えるようになるまで、
2ヶ月以上、若い女性の看護師さんやヘルパーさんに
全身を洗ってもらっていました。

全身です。

自分ひとりで全身しっかり洗えるようになってからは、
自分ひとりで入浴させてもらいました。

・・・

お風呂に入れて毎回すっごく嬉しかったです。
身体が思うように動くまで毎回洗ってもらえて本当に助かりました。

でも毎回洗ってもらっている間は本当に恥ずかしかったです。

まぁ、看護師さんやヘルパーさんは
きっと何とも思っていなかったのでしょうが。
若く見えるとはいえ(自分で言うな!)ただのいい歳した患者ですものね。

でもなんだか未だに漠然と悔しいです(笑)


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睡眠時間

病院に入院中、消灯が夜9時、起床が朝6時。ということは、
この時間を睡眠時間とすれば9時間になります。
毎日この時間にぐっすり寝られれば、まぁ充分な睡眠時間になるでしょう。

私の場合ですが、
看護師さんやリハビリの先生たちに
「ちゃんと寝られてます?」と聞かれる度に
「はい。寝ています。」と答えていました。
申し訳ありません。うそです。
(だって寝られないって言うと睡眠薬を用意されそうで)

入院前は、
だいたい毎日の就寝時刻が午前1時過ぎ、起床時刻は午前7時で、
睡眠時間は約6時間弱でした。
これで充分と思っていたわけでもないし、
足りているとも思っていませんでした。
じゃあ早く寝ろよ!ですよね。

それで入院中ですが、平均すると約5時間弱くらいでした。
入院前より短いし。

入院中、私は病室の有料テレビを全く利用しなかったので、
消灯時間の夜9時には、毎日必ず布団に入り就寝体勢でした。

で、毎日のように夜中に目が覚めます。良くて午前3時前、
早いときは午前0時前に起きてしまいました。

2度寝ってやつが出来れば良いのですが、出来ないときは
起床時間の朝6時まで布団の中で、じーーっとしていました。

じーーっとしてる時間が長ければ長いほど辛かったです。
起き上がってもどうせ真っ暗だし、やることないし。
まぁ枕元にいつも置いていたiPodで音楽を聴いていたときもありましたが。

どういうわけか入院中は寝れなかったですね。全くではなかったけれど。

これが後述するストレスにつながるのかもしれません。



不安で

入院中、よく救急車の音を聞きました。
夜中だろうが朝方だろうが、
私が入院している病院に急患が救急搬送されていました。
その度に思い出しました。自分が救急車で運ばれて来た日のことを。
本当にあったことなんですよね。
たくさん嫌な思いをしました。
当たり前に動いてた手足が動かなくなり、思った通りに喋れなくなり。

そういえば入院して2ヶ月経った頃だったかな。
だいぶ身体も良くなった頃でした。
だいぶ良くなってきたとはいえ、やはり元の身体、元の状態とは違います。
なんか右半身がギコチないと言うか、違和感があると言うか。

右手指先のしびれはまだあります。
頭もなんか以前のようにスッキリしないというか。
目まい等があるわけじゃないんですけどね。
気持ちが悪いわけでもないんですけどね。

でもまぁ見た目は普通に歩けるし、健常者のようになってきています。
そんな頃、よく思いました。

以前のように仕事が出来るのでしょうか。
以前のようにお客様から仕事をいただけるのでしょうか。
以前のようにお客様と話が出来るのでしょうか。
それもそうだけど
以前のように普通だと思っていた生活ができるのでしょうか。

すっごく不安になっていました。
何も考えず、ずっと入院していたい。なんてことも思ったりしました。
廃業のことも考えていたので、その先のことが気になりました。
働かずに隠居できる身分でもないので。

不安で不安で不安しかない時期がありました。
歳も歳だし、もうこの先どうしていいのかわからないのです。

・・・

不安になる度に思いました。

せっかく拾った命、大事にしたい。
あの日、あの時、死なずに生き残ったのには必ず意味がある。
どんな身体になっても、どんな後遺症を抱えても
死なずに生き残ったのには、必ず何かすべきことがあるのだろう。
だからきっと大丈夫。。
何事もきっと大丈夫。。

・・・もう都合よく思うしかありません。
繰り返し何度も思い込むようにしていました。

退院の目処は立っていましたが、
退院日は決まっていなかった時期だったので
きっと精神的に不安定だったのでしょうね。



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卯月 順正

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